天空の階段  プロローグ

 

 

 その浜辺は、最近の海水浴場がどこでもそうであるように、何本もの無骨な

T字堤防が海に向けて突きだしていた。沖合には、テトラポットを並べた平行堤

防が破線のように続いている。足下の波はそれらの堤防に阻まれ、飼い慣らさ

れた猫のように静かだ。寄せては返すその水面もまた、よく手入れされた猫の

毛のように滑らかで、艶めかしい光沢さえ感じさせる。

 その突堤の一つに立ち、じっと海を見つめている女性がいた。彼女は、私を見

つけ、微笑み、話しかけてきた。

「ねえ、この突堤、何だか知ってる?」

 初対面の異性の会話として、それはあまりにも唐突だった。しかし私はすぐ

にそれが最も単刀直入に相手を知る方法だと気が付いた。私たちは、間もな

認識の一致を確認すると同時に、二人がもはや行きずりの他人ではないことを

自覚した。この突堤は、温暖化による海面上昇と自然な土砂流入を阻むダム

に対して、消えていく砂浜を守ろうとする無意味な抵抗の砦に過ぎない。それ

を知ってる女性は素敵だ。

「私、とても悲しかったわ。そして、こういう生活をしながら悲しんでる自分に

も腹が立った。」

「でも造るしかないんだろうね。それにしても変わった出会い方だったね。」

 彼女はまた微笑んだ。彼女の名前は璃紗だった。

 

 

 

 ひとけのない関空で待ちあわせる。それにしてもこの広さと幾何学的な冷たさ

は、何度来ても慣れない。慣れる者なんているんだろうか。

 温暖化の進行と都市気候のせいか今日も大阪は暑い。冷房が止められた空

港内は蒸し風呂のようだ。私は生成りの麻のスラックスと木綿のTシャツ。少し

遅れてやってきた璃紗はノースリーブの白いニットのワンピース。髪は肩より少

し長く、後ろにまとめている。つばの広い黒の帽子を深くかぶり、蒼い宝石をあし

らったイヤリングが揺れている。40代には見えない。

「待った?」と彼女は微笑む。

「いいや、今来たとこ。」と、私はごまかす。

 二人でカウンターに並ぶ。預ける荷物はない。一度あさっての方角へ送られて

からは信用しないことにしている。どうせ大した荷物はないのだ。

北ウイングは利用者減少のため閉鎖されて久しい。残された南ウイングも、使わ

れているのは中央に近い半分だけで、ウイング先端へひっきりなしに乗客を運ん

でいたシャトルは運休している。

 大きな窓の外には僅かな数の飛行機が並ぶが、その半分を占めているのは、

燃料消費削減とオゾン層保全のため、最近実用化された広く長い翼を持つエアバ

ス社の新型プロペラ機だ。残りは小ぶりの旧式ジェット。もうジャンボなど大型機は

どこにも見えない。

 定刻から1時間遅れのオリンピック航空は、ようやくアテネへ向けて出発。まば

らな乗客。隣では璃紗が窓の外をぼんやりと眺めている。 これも新型のプロペラ

機。防音材の重量まで削ったのか、エンジン音はやたらうるさく、特有の振動が薄

く簡素なシートから身体に伝わってくる。

 海ばかりの眺めに退屈した頃、ようやく中国大陸が見えてくる。

「あれは・・・黄河ね・・・・・」

 璃紗が呟く。プロペラ機は低く飛ぶが、それが黄河だと分かったのは、彼女が璃

紗だからだ。もう遙か前に緑を失った平野の中で、その砂の帯は背景に埋もれつ

つある。

 

 

 

 アテネ・エリニコン空港には夜半過ぎに着く。開港したばかりだったヴェニゼロス

新空港は需要が伸びずすぐに閉鎖され、今は旧空港が再使用されている。

 「それにしても寂しいわねえ。ホントに大丈夫?今晩どこに泊まるの?アテネで

しょう?」

 「泊まりはピレウス。路線バスがまだ動いてる筈だから大丈夫さ。」

 イミグレを抜けて両替を済ませると見事に何もない。シャッターの上に埃の積もっ

たレンタカーと観光案内のカウンターが2、3並んでいるだけ。ロビーにぽつぽつた

むろする客引きを無視し、段々暗くなる広場をひたすら歩く。さすがに不安げな璃紗。

 「さ、これに乗るよ。」

 ターミナルの端っこに、これ、ホントに動くの?というような路線バスが止まってい

る。行き先表示はピレウス。古代ギリシア時代からの古い港町。バスは間もなく発

車し、暗いギリシアの道路をゴトゴトと走る。道の片側には延々と城壁の跡が続い

ている。

 「結構遠いのね。」

 「関空よりはましさ。」

 「この城壁は何?」

「アテネの街とピレウス港を結ぶ道を守っていた城壁。道路の拡張で片側壊したの

で、もう片方がこうやって続いてる。」

「アテネが地中海の水を呑むストローね。」

 闇の中に延々と横たわり、時折仄かに街灯に照らされる城壁を璃紗は見つめ続

けていた。

 

 

 ピレウスの下町の一番マトモそーなホテルに入る。2、3本消えかかって、明滅

するネオンサイン。

 フロントの眠そうなおじさんに話しかける。

「部屋見せてよ。静かで、ちゃんとお湯の出るシャワーのある部屋ない?」

「ああ、見ておいで,ほれ、カギ。でも、湯は出ないよ。」

カタコトでも英語が通じるのは有り難い。

 私は階段を駆け上がって部屋をチエック。意外に清潔な部屋。シャワーをひねる

と、赤くはない水がちゃんと出る。

「明日から贅沢するから、今日はこれでいいよね。」

「結構まともじゃない。今晩はゆっくり休めそうね。」 

 シャワーを浴びて、バスタオル一枚の璃紗のうなじにキス。沸き上がる欲望を抑

えながら明かりを消して、既に静かな寝息をたてている暖かな璃紗のと並んで横

になる。窓の外には異国の港の灯り。汽笛の音。からからと乾き、ひたすら熱い地

中海の風。

 

 

 ピレウスの朝は早く、まだ夜も明けやらぬ頃から、魚を売る声がこだまする。

 フェリーは7時発。もう行列ができている。ミコノス!ミコノスと呼ばわる爺さんか

らチケットを買って列につく。乗船開始。次々と船室に吸い込まれていく乗客の流

れから離れ、私は璃紗の手を取って、船内のタラップを上へ上へと登る。

「いったいどこ行くのよ?船室は下でしょ?」

「まあ、ついておいで。悪いようにはしないから。」

 形だけのクサリを乗り越え、広い甲板に出る。廻りには手すりも何もない。

 出航の汽笛が突然耳元で鳴り響き、璃紗は撃たれたように驚く。ここは、トップデ

ッキ。マストのある船の頂上。

「うわー、綺麗。最高の眺めね。」

「ね、登ってきて良かっただろ。」

「ええ、ありがとう。」

 見渡す限り広がる青いエーゲ海。小さな島々が次々に目に入ってくる。ナクソス、

パロス、ティノス等からなるキクラデス諸島だ。 どれも赤茶け岩が露出している。

草一本もない。荒涼たる島。

「古代文明の跡ね。」

「うん、長い収奪の果ての荒野。」

「ギリシアとローマの豊かな暮らしの結果ね。」

微かに微笑む璃紗。

 汽笛が鳴り、島が近づいてくる。宝石のような白い家が並ぶ美しい入り江が目の

前に広がる。

 

 

 二人はミコノスに降り立つ。この季節、一度も雨の降らない地中海の抜けるよう

な青空。どこまでも続く白い家々。家々の煙突までも白く塗られ、その煙出しの様

々な幾何学模様だけがが個性を主張する。鮮やかな純白は、毎年総出で塗り替

えられるという。扉と窓枠だけが驚くほど鮮やかな青と茶色。時折のぞく真紅のハ

イビスカス。足下を物憂げに横切る猫。ここはミコノス。人影少ないラビリンスの路

地。

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 暑い。璃紗の透けたワンピースを、汗が更に透明にしていく。

 路地の細い坂道を登り、下り、曲がり、登る。小高い丘の上にようやく小さな看

板が見えてくる。「ホテル クロノス」

「ここは、エーゲ海一番のホテル。ちっとも大きくないけど、地中海式の僅かな数

の離れだけの隠れ家のようなホテルなんだ。」

 荷物を運ぶ蝶ネクタイのボーイについて、白いラビリンスをたどる。小さな小道を

右へ、左へ。どこまで行くのだろうか。

 「さあ、どうぞ、お疲れさまでした。ごゆるりとおくつろぎ下さい。」

 ボーイは分厚い白い石の壁のそこだけ真っ青な重い木の扉を開ける。

部屋に入ると外の暑さが嘘のような涼しさ。地中海の人々は、こうして夏の暑さを

しのいできたのだとわかる。

 30畳ぐらいはあるだろうか。広いリビングの中央には落ち着いたテーブルセット。

赤いハイビスカスの花束が飾られている。左の白壁には、古代ギリシアのガレー

船の巨大なタペストリ。落ち着いた色合いのウールで緻密に織られている。右の

壁には木の扉が2つ。扉の間の飾り棚には古代ギリシア風の壺。美しい女性と

イルカのモチーフは出土品のコピーのようだ。

 璃紗は、鎧戸の閉まった大きな掃き出しの窓を開ける。眩しい光が部屋に差こ

む。目の前には芝生を敷きつめたプライベートの中庭。真っ白の大理石のテーブ

ルと鋳造のがっちりしたやはり白いイスが2つ。両側はこれも赤いブーゲンビリア

の植え込み。奥の方は少し小高くなっていて、斜面は一面の赤いハイビスカス。

上には小さな東屋が建っている。東屋の先には青い空とエーゲ海。

 芝生の中を東屋の方へ向かって歩き出す。ハイビスカスに囲まれた階段を上る。

「うわー、、、、、、」

 東屋に着いた璃紗は歓声をあげる。

 すぐ下には真っ青な水をたたえたプライベートプールと白いデッキチェア。

その向こうには、見渡す限り一面にひろがる白いミコノスの家並み。それぞれの

家の扉と窓枠だけが鮮やかな青か茶色に塗られアクセントとなっている。白い家

に囲まれるように深い蒼のエーゲ海の入り江。入り江にはクルーズ船や帆をあげ

て走る大型ヨット。プールの青、家並みの白、エーゲ海の蒼、そして空の青。激し

いコントラストと鮮やかなグラデュエーシションを演出するのは眩しく熱い午後の太

陽。ゆっくり歩いて追いついてきた私に璃紗は肩を寄せ、二人でこの景色を眺める。

「素敵・・・・・・・・・」

「来て良かっただろ。」

「ええ、ありがとう。」

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