天空の階段       智奈

 

  智奈が人生最後の旅先にミコノスを選んだのは、妙な噂バナシからだった。

  「階段が空飛んでるのを見た。」というとんでもない話を知ったのは、インターネッ

トも飽き、つぶれかけのパソコン通信を覗き、今まで寄ったこともなかった自家用

飛行機の会議室を閲覧していた時だった。場所は地中海、エーゲ海からアドリア

海にかけての空域で、定期航空路からずいぶん離れたところ。高度は3000フィー

ト程度。中途半端な高さだ。

 普段なら、そんなバカバナシは読み飛ばしていた智奈だが、それ以来、妙に気

になって仕方がなかった。そこで、どうせどこでもいいなら、ということで、なるべく

その場所に近い所を飛ぶ飛行機に乗ってみようと、日本を出たあと、ローマからア

テネ、アテネからミコノスへと飛んできたのだ。航空需要が急減し、円が急落して

からの運賃は異様に高く、有り金全てはたいても片道切符しか買えなかったが、

旅は楽しかった。

 ローマのサンピエトロ寺院も、コロシアムも、アテネのパルテノン神殿もばかがつ

きそうなほど大きかった。壮大なという言葉を使うべきなのだろうが、智奈の目には、

何故か、「ばかげた」大きさという形容詞がぴったりに思えた。日本ではとてもお目

にかかれない代物だ。

 機内では毎回目を皿のようにして空を見ていたが、もちろん、階段なぞ飛んでは

いなかった。目にはいるのは、青い空と、白っぽい大地。日本の緑の山々を見慣

れた目には、その白い風景は奇異でさえあった。どの半島も島も、地中海の大地

は白く荒れ果て荒涼としていた。

 

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  真昼のミコノス空港はとにかく暑い。チビTはともかく、ジーンズは脱いでしまいた

いぐらいだ。殺風景ななにもないロビーをながめて、さあどうしようかと思っていると、

外からクラクションが聞こえてきた。オリンピック航空のバスが鳴らしていたのだ。

他に交通手段がないこの空港で、どうやら、智奈を呼んでるようだ。 

 バスは荒れた大地大きくバウンドしながら走る。最後部の席に着いた智奈は、

バウンドするたびに、小さな体を振り上げられるので、しっかり手すりに掴まってい

なければならない。日本では聞き流していた、「危険ですから手すり、吊革にお掴

まり下さい。」のアナウンスを思い出す。それに意味がある場合があることを初め

て知ったが、もちろんそんなアナウンスが流れるわけはない。だいたい、目の前の

手すりは、無数の重いギリシア人達の体重を支えきれず、既に片方千切れている。

 ヒモと化した手すりを握りしめているうちに、バスはターミナルに着く。とは言っ

ても、これまた何もない。訳の分からない路地に下ろされ、人々は三々五々散っ

ていく。

 一人になった智奈の目の前に、いきなり大きなつぶらな瞳が現れる。ロバだ。

車と違って静かに歩くロバに気付かなかったのだ。背中には山のようなトマトをし

ょっている。おししそーう。ロバを引くおじいさんに声を掛ける。

 「おじいさん、これ、ちょうだい。」

 智奈は、赤い大きく熟したのを一つ手に取る。

 「*`;@「ー^;¥}」さっぱり解らない。

 おじいさんは笑いながら、智奈の手をとり、金額を指で書いてくれた。

余りに安いその金額を払うと、おじさんは智奈の持ったトマトを元に戻し、ロバの

首に掛けてある大きな素焼きの壺の中からもっと大きなトマトを取って渡してくれた。

  かぶりつく。

「おいしい!!」思わず叫ぶ。冷えたトマトが、口の中をいきなりきりりと締め上げ

る。豊かな甘みと特有のきつい香りが口一杯に広がる。信じられないほどよく冷え

ている。水を満たした素焼きの壺は、日にあたる程蒸発する水が熱を奪い冷やし

てくれる。この地方伝統の冷蔵庫だ。

 おじいさんは笑い、また何か智奈の手に書き付ける。今度は解らない。

 智奈が首を振ると、おじいさんは、自分の手を頬に当て、眠りのポーズをとる。そ

して、手招きする。どうやら、泊まりにおいで、と言っているようだ。まだ、怪訝な顔

をしている智奈の手を取り、数字を書き付け、笑う。

 それが宿代なら一桁安い! 智奈は大きくかぶりを振って付いていくことにする。

 おじいさんの家は民宿を兼ねているようで、小さな看板が扉に掛かっていた。部

屋に案内される。少し狭いがよく手入れされた清潔な部屋。おじいさんの手づくり

っぽいかわいいシャワーも付いている。

 体いっぱい使って嬉しさを伝え、小さな宿帳にサインをする。

 クソ暑いジーンズを脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。冷たい水が気持ちいい。裸の

まま、機内食の残りのパンを囓り、ペットボトルの水を飲むと元気が沸いてきた。

 

 智奈は、海に出ることにする。バスが風車小屋のあたりから出ると聞いて歩き始

める。風車は近くに見え隠れするが、道は折れ曲がり、なかなか行き着かない。

しかし、折れ曲がっているおかげで小道は両側にせり出す白い家の深い谷間とな

り、最も暑い時間なのに風が時折さわやかに吹き抜ける。

 ようやくたどり着き、バスに乗る。またしてもがたがた道。荒れ果てた風景。とこ

ろどこに土色の建物が見えるが皆廃墟だ。ここでは人が住まなくなった家は、白く

塗られることもなくなり、防水の術を失った家は、冬の雨に打たれ、夏の日に照ら

され、最後には自然にもとの土に戻っていくようだ。

 ビーチに着く。広大な砂浜が広がっている。今はもう海面上昇のため、砂浜のあ

る浜辺は珍しいが、ここだけは別だった。ジブラルタル海峡水門とスエズ運河閘

門が完成してからは、地中海だけは以前のような美しい砂浜が戻ってきているの

だ。


 高校生ぐらいの男女数人の賑やかな集団がやってきた。手には鋭いロックのビ

ートを刻む大きなラジカセを抱えている。彼らは大音量のラジカセを浜辺に置くと、

次々に服を脱ぎ始めた。男の子達はTシャツを取ると、日焼けした厚い胸板が現

れ、ズボンに手を掛けている。女の子達も、上を脱ぐと水着ラインのない焼けた胸

がいきなり飛び出す。男の子はもう全部脱いでしまい、長いそれをぶらぶらさせて

いる。ひとりの女の子が、いきなり男の子のものをふざけて指で弾く。その子は、

仕返しに、彼女のパンティを引き下ろす。他の女の子もスカートやパンテイを何の

躊躇もなく、何か冗談を言い合いながら脱いでいく。間もなく皆全裸になり、ラジカ

セを切って海へ走っていってしまった。

 なんとまあ、おおらかなことだろう。砂浜に腰をろした智奈は、自分だけが服を付

けているのが不自然にさえ思えてきて、おずおずとTシャツを脱ぎ、胸を太陽に晒

す。乳房がちりちりと焼ける。

 なんて気持ちがいいのだろう。光に曝した裸の胸を涼しい風が直接撫でていく。

 智奈は、ズボンを脱ぎ、パンティ一枚になって海へ飛び込んだ。意外にも刺すよ

うに冷たい水が体を包む。

 

 日焼けと泳ぎで疲れ、部屋に戻った智奈を急に眠気が襲う。

 静かなミコノスの昼下がり。この時間は誰もが長い午睡をむさぼる。

 

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 長い午睡から目覚めたあと、宿のおじいさんの勧めで向かいのタベルナで夕食

を取ると、あたりはもう暗くなっていた。しかし、この路地は暗くなるほどに賑わい

を増し、智奈もその人混みに誘われて路地を巡ることにした。

 智奈のこの島での日本人との出会いは衝撃的だった。彼女は、彼と二人でリゾ

ート着を眺めていた。そこまでは気にもとめることのないどこにでもある光景だった。

しかし、そのあとは今でも信じがたい。

 彼女は、ごく自然に着ていた白いワンピースを脱いだ。下着は何一つ付けてい

ない。綺麗な白い胸としなやかな肢体は妙に魅力的だった。彼女はなにも隠すそ

ぶりもせず、全裸のままゆっくりと彼となにやら話しながら掛けてあったキャミソー

ルを試着したのだった。

 今まで出逢ったことのない種類の女性だ。それにしてもこの胸のうずきはなんだ

ろう。刺激的な光景を見せられたからだろうか。二人の会話から聞こえてきた彼女

の名前は「りさ」だった。

 

 

 

 

 

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