天空の階段     天空の階段  

 

 「ねえ、あれは何?」

 中央アジアの白い大地に黒い帯が遙か彼方まで続いている。その帯は小山を

避け川に沿って橋まで下り橋を渡り、もう何もない真っ白な世界を東へ東へと貫い

ている。

「ねえ、この帯は?それにどうしてここは地面が白いの?」と智奈。

「この帯は・・・・・・・、人の世界で最後の希望・・・・・かな」と私。

「黒い帯は難民の列ね。白は・・・ここは中央アジアでアラル海に近いから、塩ね。」

璃紗の後を私が続けた。「灌漑が始まって、ここは草原から綿畑に変わった。それ

から、ずっと与えられた水は蒸発を続け、用水の中の塩分は大地に残った。それ

がこの見渡す限りの白い塩の荒野。もう何の命を育むこともない荒野。

  この帯のように連なる人々は皆歩いてアメリカを目指してる。別に東へ向かい

ヨーロッパを目指すグループもあるだろうね。」

「豊かな国を目指してるのね。助けてあげないとね。」と智奈。

「多分違う。少なくとも彼ら、今ひたすら歩いている彼らの指導者達はそうは思って

いないだろう。」

「じゃあ、どう考えてるんだろう。武装して襲うとか?」

「あは、違う違う、簡単に言えば、遅れてる国を指導したいって思ってるだろうね。」

「え、何、逆じゃないの?」と智奈。

もう少し事情を知っている璃紗はそんな智奈を見て微笑む。

 「誰も耕さないから機械で耕す。誰も堆肥を積まないから燐鉱石から肥料を合成

する。そんな方法は、進歩でもなんでもなくて、ただの消費だったんだよ。本当の

技術、本当の文明の最低限の条件は、去年営んだことを今年も営めるということ

だろう、でなきゃ滅んでしまうからね。西欧に始まった近代文明は、その最低限の

条件を最初から、そう、石炭を掘り始めた時からもう満たしてはいなかった。あれは

文明ではなかったんだ。ただの蕩尽。既にある富を消費することで豊かな社会を

刹那の間築く幻影だったんだ。

 今下を歩いている人々は違う。多分、背中には種を、鍬を背負い、鶏を羊を連れ

ているだろう。彼らこそ、今日の糧を今日の労働で創り出す技術を持った最後の

文明の民だろう。そして彼らの智恵と技術を理解し学ぶことが恐らくは唯一の希望

だと思う。」

「でも、」と智奈。

「うん、言いたいことは分かる。受け容れないかもしれないってことだね。アメリカも

日本もドイツもイギリスもフランスも彼らを拒絶するかもしれない。多分拒否するだ

ろう。日本もアメリカもここ何年も防衛力を強化し続けてきたけど、新しく開発配備

されるのは、冷戦時代とは違って効率よく殺戮できるような対人兵器が中心だっ

かからね。」

「え、日本も?」

「ああ、残念だけど。陸自の新型装甲車のウリは、対戦車ミサイルじゃなくて、対

人榴弾投擲器だったしね。

 それでも、帰るところのない彼らは進むだろうね。彼らは、自分たちがここ数十年、

先進国と呼ばれる国々の「援助」という名の破壊に翻弄され、幻影を見せつけられ、

一時はその幻影に躍った。随分長い間ね、そして、ようやく目の前に表れた塩に

おおわれた畑、海水に洗われた水田、スラムに囲まれた停電し続けたままの高

層ビルに、幻影を醒まされたんだ。

 誰もがアメリカやヨーロッパや日本のように豊になれる、誰もが土と汗にまみれる

ことなく、エアコンの効いたオフィスの中で叩くキーボードから富を産み出すことが

できる。誰もがドライブを楽しみレストランで食事する社会がやってくる。そんな幻影

から醒めたんだ。多分もう戻ることはないだろうね、過酷なこの旅の中で、今彼ら

はその血に営々と刻まれてきた大地の中で暮らす術を蘇らせ始めてることだろう

ね。」

「ねえ、ところで、この人たち、水はどうしてるの?こんな荒野にどこにも水は見あ

たらないのに。」

「それはも暫くしたらわかるよ。」

 

 

 

 その後、飛行船「アザーン」は人々の帯の上空を飛び続けた。部屋から下を眺め

ると人々の帯が、横を眺めるとやはりどこまでもどこまでも続く雲海を見渡すことが

できる。

「さあ、あっちを見てご覧、そろそろ見えてくるから。」

 私の指さす方向の遥か彼方、蜘蛛の糸のように微かな細い何かが、空から地面

へと垂れ下がっている。

「え、何?あれ。」

 璃紗は尋ねるが、私は答えず微笑む。「アザーン」は静かにその糸のようなもの

に近づいていく。

 「あ、水?何か膜を伝って流れ落ちてる。」思わず智奈は上を見上げるが低くた

れこめた雲に阻まれて何も見えない。下を見下ろすと、彼らが人力で掘ったのだろ

う、大きな池が作られ、そこになみなみと水が注がれている。

「え、どうして、」と智奈そして璃紗も。

「水は上空から落とすと霧になってしまうので、ああやって膜を伝わせて落とすん

だ。さあ、これで水の供給が行われてるのは分かったろう。」

「何はぐらかしてるのよ、雲の上から水道みたいに水が落ちてきて、それで説明に

なる訳ないじゃない。」

「あはは、まあ、静かに見ていよう。」

 アザーンはその場からゆっくり離れながら旋回しつつ高度を上げていく。

少し距離をとったアザーンは、一旦雲に入り、そして暫くの後に雲から出る。突然

の光が眩しい。その目映い光の中を、一筋の細い連なりが斜めに空を横切ってい

る。

「飛行機雲?・・・・うん、でも雲じゃないわね、どちらかというと連凧に近いかな。」

と智奈。

「もうちょっとましな比喩思いつかない?あんなに綺麗なのに。」と璃紗。

 次第に大きくなるその連なりは、美しく輝く小さな無数のきらめきをのせながら、

ゆらゆらと揺れて、視界を斜め上方に横切り空の彼方まで続いている。

 

「うわー、空中に滝?流れてるのはさっきの水なの?それにさらさら廻ってるのは

何?」

 それはもう手の届くような距離に近づいてきた。糸のように見えたのは幾枚もの

ふわふわとした円盤の連続だ。きらめいていたのは絶えることのない水の流れ。

そして、その円盤と円盤の間は小さな滝になっており、遥か上空から延々と続い

ているその空中の川は、無数に連なった水車を廻しているのだ。

「・・・・天空の階段ね・・・・・」智奈は静かにつぶやく。

「アザーン」はその階段に添うようにゆっくりと高度を上げていく。窓の外には、斜

めに連なるその風景が延々と続いている。間もなく、遥か頭上に透明な楕円が現

れる。それは音もなく大きくなり、しばらくすると、視界の殆ど全てを覆ってしまう。

璃紗も智奈もじっと見つめている。それは半透明で、その向こうでは空の青色が

不確かに揺らいでいる。「アザーン」はさらに上昇し、その横を通り抜ける。突然、

視界にきらきらとした銀の水面が現れた。広い水面が更にその何倍も広い半透明

のものの中に愛おしむように抱かれている。風は静かに水面を揺らし、揺れる光は

半透明の膜に吸い込まれる。

「・・・・・・綺麗・・・・」璃紗も智奈も息を呑む。

「どう、気に入った?これは天空の湖。水素の浮力で浮かせた大きな複層薄膜、

こないだの絨毯みたいなものだ。それに水を蓄えている。階段状の滝も同じ仕組

みで浮かんでる。水車は発電用で、これは空中の貯水所兼発電所なんだ。雨は

遥か上空から落ちてくるけどその位置エネルギーは無駄になってしまうよね。この

天空の湖が、雨を上空で捉え、天空の階段は、その水が落ちていくまでのエネル

ギーを水車で電力に変えるシステムなんだ。」

「理想の発電システムか。いい加減な気持ちで来ちゃったけど、すごいもの見せて

もらったわ。こんなのが次々出来れば少しは希望が持てるようになるわね。」

智奈はつぶやく。

「ああ、次々出来ればね。」

「出来ないの?」璃紗が尋ねる。

「どうして、インド洋なんだと思う?智奈の噂の場所はエーゲ海だったよね。」

「ええ、過去ログ調べたんだけど、最初の噂はドイツ、次がアドリア海、そして最後

は、エーゲ海だったわ。」と智奈。

「何故だと思う?」

「流されたのかな、でも、気流は逆ね、あ、動いているのね。」と智奈。

「私たちから逃げてるのかもね。」璃紗が笑う。

 私は笑わなかった。

 

 

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   恐れ入ります。この先工事中です。